映画「ピンクとグレー」を観てきました。

この記事は映画の内容について触れまくっているので、まだ映画をご覧になってない方はぜっっったいにお読みにならないでください。


映画「ピンクとグレー」観に行ってきました。
公開初日、1/9に。


映画を観終わった後の私の第一声は「これは、シゲアキのピングレじゃない!!!」でした。

 

原作と映画は別物だと、頭ではわかっているのに、全然理解が追いつきませんでした。

以下、「原作はこうだったのに、映画は全く違った!」という箇所を恨み節のように書き殴った内容になります。俳優への称賛は

このツイートにぎゅぎゅっと詰め込みました。

なので、ここから先は作品(というか、人物像)について思ったことを、お話しさせていただきます。

 

 

行定監督はこの「ピングレ」を、「芸能界の成功と挫折」という題材を主軸として描こうとしてて、努力と人格っていう「わかりやすい指標」を分かれ目にし過ぎた。一般にはその方が伝わりやすいんだろうな、とは思う。

成功しなかった方のりばちゃんを、凡人として、視野の狭い人間に描き過ぎたが為に
男と男の「屈折した友情(Byシゲアキ)」、それは愛とか恋の類ではなくて、でもお互いをリスペクトしてて、二人ともそれぞれがお互いと同じ場所に立ちたいと願ってて…
そういう大事な要素が欠落してしまったのでは?

そこが欠落すると死体の第一発見者になることと6通の遺書を彼に託した意味自体が希薄になるし、それはもう別の物語だと思う。


映画はりぱちゃんとごっちの関係性に全然萌えられない。
ごっちとサリーにも萌えられない(←そもそも二人付き合わないし…)

 

映画のりばちゃんは
努力をしない→だから華を咲かせられない
それだけれども一丁前に人を羨み、妬む
うまくいかないことのはけ口を女に求める
原作のりぱちゃんは絶対に、相手の気持ちを無視して女を押し倒すような人ではなくて、繊細で、屈折してる人だけど
映画のりばちゃんは子供みたいに単純でなんというかとにかく凡人
凡人だから死すらも選べない。選ぶ強さもない

 

映画のごっち。
とにかく死にたいごっち。
原作のごっちは葛藤や苦しみや絶望から死を選ぶけど、
映画のごっちは「信念」から死を選んでいる。
彼に死を選択させた要因は「姉」という一因しか見つからない。
「りばちゃんを引き上げてあげたい」と思うほど、りばちゃんに思慕があったのかどうかも伝わってこない。だからごっちがりばちゃんに6通の遺書を託した必然性が薄く感じた。
「僕を作れるのはもう君しかいない」映画のごっちはそんなこと思っていなさそう。
柳楽ごっちと裕翔りばちゃんの関係性はピリッとしてて
原作のウエットなごちりばとは全然違くて、それはそれで面白いかな。とは思える。
映画の姉(唯)とごっちの描き方は結構気持ち悪かったなあ。生理的に受け入れがたかった。

 

映画のサリー。サリーはとにかく「芸能人ではない一般人」の象徴として”だけ”描かれている。
だから変なバランスの丈のコートとスカートとブーツでものすごく垢抜けない服装させられている(涙)。
原作のサリーは誰よりも強くて、芯が通ってて気高い。相手が売れっ子芸能人だろうと、自分が一般人だろうと、そんな立場で自分を卑下したりしないし、あんな押し倒されてほだされてだめんずを仕方なしに養ってしまうような女ではない…(涙)
「私といるべきもあなたじゃない」そう言って自分から去ったサリーは映画の中にはどこにもいない。

 

そんな感じで、主要な三人の人物はびっくりするくらい原作と違う人間だった。生きづらいほど繊細でもどかしいほど共感とリスペクト出来る人たちではなくなっていた。泥臭くて浅はかで「現実にいそう」な人たちで描かれた「芸能界での成功と挫折」の物語になっていた。

オリジナルな脚本部分での成瀬とごっちの関係性の方が意外に興味深くて、成瀬がりばちゃんに「俺の方が白木蓮吾を知っている」っていっぱいマウンティングしてるの、あれは一番萌えられるかもしれない。ほんとただの二次創作だけど。
原作の「その先」が「死ねないりばちゃんのその先」なのは世界の一つとしてアリだと思う。
別物でも全然いいんだけど、監督が作った「とにかく一発ヤリたい」男なりばちゃん像とか流れされて受け入れる演歌みたいなサリー像こそが受け入れ難かったからこの作品を今後愛せるかは微妙。
デュポンが待ち合わせ場所でもバンドの名前でもなくて成功の象徴との説明もなく突然現れるところとか、6通の遺書の未消化過ぎるところとか、細かいところケチつけたらキリがないね。


裕翔くんは原作の「ごっち」と「りばちゃん」をよく理解してたと思う。醸し出す空気感が、一番原作を感じさせてくれた。
菅田くんはたぶん、監督や現場が求めてるものに応える力が天才的なモンスター。
スクリーンの中で観たかったごっちとりばちゃんの「友情」が、スクリーンの中では消化不良だったけど、演じてる本人たちがリアルで実らせてきたのはなんという皮肉であり奇跡なのだろうと感心する。

 

「カラフト伯父さん」感想その2 -カラフト伯父さんとの和解を考える-

前回のブログ記事で、カラフト伯父さんに対して憤怒した内容について書きましたが、「徹くんから借りたお金でお酒を飲んでしまった」こと以外は別に、怒りも湧かなかったし侮蔑の気持ちにもなれなかったんですよねえ。
むしろ私自身が普段あまりにも家族孝行をしていないので、仕事やなんやら多忙を理由に「気に掛けるべき存在」をつい蔑ろにしてしまっていたカラフト伯父さんはまるで自分のことのようで胸が痛みました。

本当なら、千鶴子さんの今際の言葉を胸にもっと徹くんを気に掛けるべきだったと思うし、そのタイミングでは徹くんの義父の存在への遠慮があって出来なかったというなら、義父が亡くなって徹くんが独りぼっちになってしまったタイミング(1998年?)ででも、もっともっと連絡したり、神戸に会いに行ったり、とにかくコミュニケーションをとって徹くんがどんな気持ちでいるのか感じることが必要だったと思います。
それをしてこなかったカラフト伯父さんは責められてもしょうがないとも思う。

だけど、「そうすべき」タイミングでそれが出来ないことありますよ、あるよね。人間だもの。

あと、自分が人生に失敗したからこそ、若者にはそうなって欲しくない。どうかこの「タイミング」で気付いて欲しいって気持ちにもなる。そして説教をしてしまう。これもほんとにわかる。
そんな感じで、カラフト伯父さんと自分が重なる部分はとても多かったのです。

カラフト伯父さんは「どうして自分はこんなにも徹に嫌われているんだ?」って思うんだけど、その原因に思いが至らない程鈍感だし、鈍感だからこそ、ここまで放置し続けてしまった。でもね、この2005年のタイミングでは、放置し続けなかった。カラフト伯父さんは徹くんの気持ちがわからないからこそ、一生懸命徹くんとの会話を試みたし、「もう金なら貸すから出て行ってくれ」と言わんばかりの拒絶にも、踏ん張ったんだと思います。四場?の最後、お金借りて「これで東京に帰れる」と喜ぶ仁美ちゃんとは対照的に、複雑な面持ちを見せるカラフト伯父さん。あそこの場面の升さんの表情、すごくグっと来るんですよねえ。

ほんとは「自分がどんな理由で嫌われてるか」聞くのって怖くないですか?
カラフト伯父さんには「徹は何を聞いてもダンマリばかりで話してくれないしわからん!どうしてか嫌われてしまったけど理解は出来なかった。当初の目的であるお金は借りることができたし、もう帰ろう」っていう選択肢もあったと思うんです。私ならそうしてしまうかもしれない。でも伯父さんは逃げなかった。徹くんのことを理解したかった。どんな理由で嫌われてるかちゃんと聞かないと離れられないと思った。それは自分の罪に気付かされる、とても辛い通過儀礼だと思う。そこに向き合うために、勇気を出すために、補助的に酒の力を借りなければならなかったんだなあと思うと、酒を飲んでしまったカラフト伯父さんも理解できるというか、怒りの気持ちよりも「まったく、弱くて仕方のない人だなあ」という愛着すら湧いてくる気がするのです。

「カラフト伯父さん」作品の感想

この記事は舞台の内容について触れまくっているので、まだ舞台をご覧になってない方はお読みにならないことをお勧めします。

ていうか読まないで!まず舞台みて!


「カラフト伯父さん」観てきました。4/29ソワレ。
奇しくも光くんたちが観劇に来ていた回でした。


序盤から中盤は、「おお、伊野尾くんが演技している」という興味が優ってしまって、完全に作品に入り込めていない視点で舞台を観ていた気がします。そんな中で「何故、徹くんはカラフト伯父さんに対して、こんなにも喧嘩腰な態度を取るのだろう?」という疑問を抱くことによって、徐々に物語へ惹き込まれていきました。


徹くんがカラフト伯父さんと仁美さんに翻弄される様子がコミカルかつ軽快に描かれる一方で、徹くんは頑なにカラフト伯父さんに反発し続け、その理由を口にしないままお話は続いていきます。
カラフト伯父さんに対し、無言で拒絶する…もしくは大声で罵声を浴びせるばかりの徹くんですが、人柄の悪さみたいなところは全然感じさせず、むしろ、普段の徹くんはぶっきらぼうだけれども穏やかで優しくもある…(伊野尾くんの演技によっての印象かもしれませんが)…そんな人物像が丁寧に描かれてました。


そしてクライマックス。なんかね、もうね、徹くんから借りたお金でお酒を飲んでしまったカラフト伯父さんへの憎悪がすごくて、伯父さんを叱責する仁美さんと激昂した徹くんににひたすら共感しかなかった。
おそらく観客の大半が、カラフト伯父さんに対して呆れ、怒り、蔑みの気持ちを抱いたところで、怒りを爆発させた徹くんが、とうとう宿怨の思いを口にします。
震災の際の苦しみ、年月が経っても彼の中に根深く残った辛さ、そして救いを願った叫び…。


この場面を観て私は「ああ、徹くんにとってカラフト伯父さんとは『神様』みたいな存在だったんだ」を思いました。
つらく苦しい時に助けて欲しい、どうか救って欲しい、そんな風に懇願する対象は、もう「神様」じゃないですか。
徹くん自身は「ヒーローだった」って言ってたけど。そうか…少年にとっては、日曜の朝に観る戦隊物のヒーローこそがピンチ時に助けてくれる代名詞なのか。でも私にとってそれはむしろ「神様」と呼んだ方が胸の中にストンと落ちる感覚でした。

「カラフト伯父さん!カラフト伯父さん!」と、いたいけに叫ぶ徹くんは、まるで道端で転んだ後に「お母さん」と泣き叫ぶことしかできない幼子のようで、胸がぎゅうっと締め付けられました。

 助けて欲しかった時に、救いの手を差し伸べてくれなかった神様…
徹くんの絶望には、どんなに想像しても辿り着けない気がします。
そして、そんな徹くんの叫びを聞いて、カラフト伯父さんがとある一言を発します(パンフレットに載っています)。

 

この一言がねえ……観てる最中の私にはピンと来なくて。
ああ…この一言で救われた…って気分になれなくて。
むしろ、火に油…?怒りの火に油を注がれた感じ…?

暗転後、憑き物が落ちたように穏やかな表情の徹くんが現れたとき、「ああ、良かった。」と思ったけれど、私の中では依然カラフト伯父さん絶許案件の儘だったので、なんとな~く、釈然としない気分のまま、それでも未来に向かう彼らに心底安堵して、エンディングを迎えたのでした。


観劇直後ってなんだかうまく物語を消化できなくて、短くても一晩、長ければ一週間くらい、頭の中で思い出して、こねくり回して、時間をかけてようやく「ああ、あれはそういうことだったのか」と合点がいくようになるのですが、この作品に関してはまず「どうやったら私は徹くんのようにカラフト伯父さんを赦して和解することが出来るだろう?」ってシミュレーションから取り組みました。長くなりそうなので、それはまた別の記事として書きます。
演者としての伊野尾くんに対する感想も書きたい。

正直なところ、初日に観劇した方たちの感動ツイートを拝見してしまっていたせいか観る前から作品に対する期待値のハードルを上げすぎてしまった感が否めず、また、「泣きのツボ」が私のそれとは違ったようで、号泣するまでには至らなかったのですが(あと、演者に対する思い入れの差かな…?)徹くんがあの静かな町の中で、どれ程の孤独を感じていたんだろうかを想像すると、じわじわと沁みてくるというか、暫くはこの作品に思いを馳せてしまうような気がします。